大嶋 清

「星野富弘さんとの出会い」大嶋 清

神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら
そんな日が本当に来るような気がした

(星野富弘作・ぺんぺん草/書籍『風の旅』P40/絵はがき集 第1集 収録)

この富弘さんの詩画に初めて出会った時の感動を今でも忘れることができません。その後、あちこちで開催される「星野富弘花の詩画展」に足を運び、詩画作品の前で涙を流している人々の姿を目にし、”この感動を多くの方々に伝えることができたら……”との熱い願いをもって、1986年に星野宅を訪問いたしました。
私は1967年に脱サラをして、ディスプレイを母体としたデザイン会社・グロリア・アーツ株式会社を設立。一時は倒産の危機にも遭遇しましたが、何とか乗り越え、創業15年目に会社の業務を拡げ、「美術総合企画・制作事業部」を設けました。有名な画家の絵画の絵はがきやカレンダーの制作販売をいたしておりました。星野富弘さんが病院で洗礼を受け、キリスト者としての香りがする作品は同じクリスチャンである私にとって言いようのない魅力を感じました。私のライフワークとしてこの感動を絵はがきやカレンダー制作の許可をいただければと群馬県の星野宅を訪問したわけです。唐突なお願いに星野さんは困惑したようです。もちろん私の願いは聞いていただけませんでしたが、星野さんのお人柄とその作品に魅せられた私は懲りもせず、仕事抜きのお付き合いをさせていただき、富弘さんの手、足となってお役に立ちたいと深く願うようになりました。
私は絵を描く趣味を持っていました。家内は群馬県で育ち、詩作の趣味を持っていたので、私たちは富弘さんと話が合い、家族ぐるみのお付き合いが始まりました。奥様の昌子さんが詩画展会場に出かける時は、我が家に泊まっていただいたり、家内と共に詩画展にご一緒させていただきました。その頃はまだ、富弘さんは群馬県以外に出たことがなかったのです。
車いすの富弘さんの生活が快適に過ごせるように工夫、改良したりして、富弘さんの希望を取り入れたりしながら、楽しいお交わりをするようになりました。遠出したことのない星野さんを神奈川県川崎市のグロリア・アーツ(株)新社屋の竣工式にお招きするという、冒険を計画し、実行いたしました。群馬県まで富弘さんを迎えに行き、横浜のホテルにお泊まりいただきました。このことによって星野さんは出かけることに自信がついたようです。その後、飛行機に乗って遠く九州や四国、はては海外まで出かけられるようになりました。その都度、入念な下見と、細かなスケジュールチェックをするのが私たちの役目となりました。
1988年に星野さんからカレンダー制作の許可をいただき、その後、絵はがきやグリーティングカードの企画制作も実現し、今や星野富弘詩画集カレンダーは国内はもとより海外のいろいろな国に送られ、他に類を見ないほどの部数が用いられております。
星野ご夫妻との出会い、そして、各所の詩画展にお供させていただいたことは私にとって大変意義深いものとなりました。特に、我が社の経営理念である『「心の文化」「環境文化」をもって社会に貢献する』は、星野さんの作品から受けるメッセージが大きな影響を与えております。
男のロマンとして星野さんや作品を広める役割を果たすことができたのも、星野さんの作品の素晴らしさとそれに感動した方々との出会いがあったからだと思っております。
2003年、私は体調を崩して、グロリア・アーツを勇退して、後輩の小﨑高義氏に代表取締役を引き継ぎました。

大嶋 清 (おおしま きよし)プロフィール

(前グロリア・アーツ(株)代表取締役社長/前富弘美術館を囲む会事務局長)

1939年 東京で生まれ、川崎市の小中学校を卒業。
1956年 芝浦工業大学を卒業。
アルプス電気株式会社入社。
1965年 洗礼を受け、クリスチャンとなる。
1967年 ディスプレイを母体としたデザイン会社を創立。
1984年 美術綜合企画・制作事業部を開設。
1988年 星野富弘詩画集カレンダーを手始めに、絵はがき、グリーティングカードなど企画制作。
御茶の水、ニューヨークの「星野富弘花の詩画展」の実行委員長をつとめる。
1997年 川崎市(リパーク3階アートガーデンかわさき)で「星野富弘花の詩画展」の実行委員長をつとめる。
2003年~ 富弘美術館建設検討委員会に任命され、新・富弘美術館の建設に関わる。
後任にグロリア・アーツ(株)を委ね、勇退。

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